心證寺の半鐘

 昭和20年7月28日夜、一宮市はアメリカ軍のB-29爆撃機約260機による空襲を受け、700人を超える人々が焼死、市街地では8割を超える家屋が灰燼に帰しました。
 心證寺もすべて焼き尽くされ、当時の住職は、奥様、5人のお子さんと一緒に、境内にあった防空壕の中で亡くなりました。
 戦後しばらくは、住職も建物もない状態で、戦災の瓦礫捨て場のようになっていたといいます。

 昭和22年、常楽院日將上人が住職として招かれます。日將上人は、岐阜県揖斐郡清水村の出身で、大正7年、日蓮宗大学(今の立正大学)を卒業後、当時日本が併合していた朝鮮へ布教に渡ります。
 朝鮮でいくつかの日蓮宗寺院を建立し、信徒の教化に尽力していましたが、昭和20年、終戦により、すべてを朝鮮に置いたまま、身一つで日本に引き上げ、郷里清水村の兄の家に寓居していました。

 日將上人が心證寺に招かれた当時、心證寺は戦災で焼き尽くされ、何もないところからの再建となりました。檀信徒の方々の住まいもまだ十分に整わない中、昭和26年に半鐘の銘にある6人の方々が中心となり心證寺復興後援会が結成され、多額の寄付が集められ、檀信徒の方々の丹精によって27年に本堂再建が成りました。
 その折、寄進された半鐘に、心證寺本堂再建のいきさつを刻したものが、この銘文です。

 心證寺が創建され350年以上になりますが、先の戦争は、その歴史に最も暗くて濃い影を落としています。もうこのような災いが二度と起きることがないようにしたいものです。