心證寺と苅安賀城

 境内の一番古く大きな墓は、心證寺を創建した浅井七左衛門平正貞公の墓です。右側面に元禄二年の年号、左側面に心證寺創建の由来が記されています。読めなくなっている字もありますが、そこには、おおよそ次のように書いてあります。 

”浅井七左衛門平正貞は、父の心證院宗孚日解居士、母の成等院妙孚日悟大姉の菩提を弔うために、尾州苅安賀村に一寺を創建し、成等山心證寺と名付けた。殊に田畑二反を寄進し、寺の財産とした。浅井氏並びに従者はこの寺の壇越である。 寺の住職は祈願と回向を怠ってはいけない。”

 浅井七左衛門正貞という人は、尾張織田家の家老を務めた苅安賀城主浅井新八郎政貞の五代後裔です。

●苅安賀城と浅井氏

 苅安賀城は、浅井新八郎政貞が永禄四年(1561)に築いた城です。桶狭間の戦いの一年後のことです。新八郎は近江の出身で、小谷城主浅井長政(織田信長の妹、お市の方が嫁ぎました)の従弟にあたります。また、山内一豊も母方の従弟の子にあたり、永禄二年(1559)の岩倉城落城後、一豊は一時苅安賀城に身を寄せていたと言います。
 新八郎は織田信長に仕え、「近江箕輪城攻め」「比叡山攻め」「長島攻め」などで活躍しました。信長が長男の信忠に家督を譲ると、尾張領主となった信忠に仕え、新八郎は織田家の家老となり一万三千石を拝領します。
 その後、豊後佐伯藩の初代藩主となる毛利高政の妹お亀殿と結婚し、少なくとも二男一女をもうけています。毛利高政は、元は森高政と言い、苅安賀の隣、花井方村の出身といわれます。
 浅井新八郎は天正九年(1581)に亡くなり、十六歳の長男、田宮丸が跡を継ぎ、織田信忠(信長の長男)に仕えます。田宮丸というのは幼名で、「長時」という名があったようですが、まだ若かったため、いろいろな歴史資料には浅井田宮丸と記されています。
 天正十年(1582)「本能寺の変」で主君の信忠が信長とともに討ち死にします。清須会議の結果、信長の二男、信雄(三谷幸喜監督の映画「清須会議」では妻夫木聡が演じました)が尾張領主となり、田宮丸は織田家家老として信雄に仕えることとなります。

●田宮丸の死と落城

 天正十二年(1584)三月、尾張領主 織田信雄は、浅井田宮丸、津川義冬、岡田重孝の三家老が秀吉と内通したと疑い、信雄が当時居城としていた伊勢長島城に三家老を呼び出し、謀殺してしまいます。 これが秀吉の策略だったと知ると、信雄は激怒し、家康に助力を求め秀吉と対決します。これが発端となり「小牧・長久手の戦い」が始まります。
 苅安賀城は、田宮丸殺害と同時に信雄の命を受けた森勘解由の軍に攻め込まれ、落城します。家康は美濃の秀吉軍に備え、美濃西部に最も近い苅安賀城の普請を命じています。秀吉と家康が、唯一直接対戦した小牧長久手の戦いは、双方大きな痛手を避けたまま、半年後に和睦します。
 関ヶ原の戦いが終わり、戦乱の世に幕が引かれると、苅安賀城は役割を終え、廃城となります。
 城主であった浅井田宮丸の母は、豊後佐伯藩の初代藩主となった毛利高政の妹ということで、尾張藩主徳川義直により扶持を与えられ、村人から「かりやすか殿」と敬われ、苅安賀で生涯を全うしたといいます。「かりやすか殿」は、養子を迎え、浅井家は存続します。子孫は代々、浅井七左衛門を名乗り、心證寺を創建した浅井七左衛門正貞は、三代目にあたります。

●心證寺開基

 寛文元年(1661)、心證寺は苅安賀村の中央に建てられました。寺の門前は広場のようになって、六斎市が開かれたり、高札が掲げられたりしていました。
 明治4年、心證寺内に寧静学校という小学校が開かれます。
 明治24年、濃尾震災によって心證寺は倒壊します。濃尾平野のほとんどの寺院が倒壊したといいます。心證寺の大檀越であった浅井氏は、当時東京に転居しており、旧一宮市内に日蓮宗の寺院がなかったことから、心證寺は、現在地、一宮市大宮(旧杉戸町)に移転、再建されます。
 心證寺の跡地は、寧静小学校、苅安賀小学校と名前を変え、現在の大和西小学校になっています。昔のことを知る人の話を聞くと、西尾張中央道が建設されるまでは、大和西小学校の講堂脇には墓地や水路が残っていたそうです。東海北陸自動車道の一宮西インターが建設される際に、愛知県埋蔵文化財センターが発掘調査をし、心證寺の寺域を画す堀割の遺構や五輪塔の一部、南無妙法蓮華経と書かれた卒塔婆などが確認されました。

●浅井星洲の筆塚

 現在、大和西小学校の校庭西側に「浅井星洲筆塚」という石碑が建っています。浅井星洲は幕末の絵師で、心證寺を創建した浅井氏の家に生まれ、京で四条派の絵を学び、帰郷しました。尾張藩主に愛賞され、御留筆として許可がなければみだりに描いてもらえなかったといいます。
 かつては心證寺の境内にあった筆塚が、苅安賀時代の心證寺を伝える唯一の名残となっています。